



●結婚1カ月前の宣告
会社の健康診断で初めて婦人科も受けてみようという気になったのは、1カ月後に結婚を控えていたからなんです。実は、その健診というのも、社内で実施した日には仕事の都合で受けられなくて、あとから社外の医療機関で受診することになってしまったんですが、この時、社外で受けていなければ子宮筋腫の発見はもっと遅れてしまったと思います。社内の健診のメニューには婦人科はありませんでしたから。
「これは大変。結婚が決まっているのなら、一日も早く産んだほうがいいわ」と健診の女医さんに言われても、「えーっ、子宮診腫?」という感じで、何を言われているのかわかりませんでした。私自身、子宮筋腫についての知識は何もなかったし、子宮筋腫を疑うような自覚症状もなかったですから。
筋腫がかなり大きいから子宮を全摘することになると思う、大学病院でよく診てもらうといい、とその女医さんに慶応大学病院を紹介されましたが、この時は、結婚するというのに子宮全摘だなんてどうしようと、ただただ恐かったです。結婚式が間近に迫っていたこともあり、実際に慶応病院に行ったのは6月に入ってからです。結婚後は仕事もしていたのでバタバタと忙しく過ぎていきましたが、いつも頭の片隅に「全摘」という言葉が張り付いていました。
●思いがけない妊娠
慶応病院では一日がかりの割りには簡単な検査だけをして、また2週間後に来なさい、と言う。予約した日に行くと、若い医師が検査結果を見ながら、いきなり「困ったなあ、流産しますよ」と言うんです。なんと妊娠していたんです。7週目ということでした。
「流産する」と言われたうえに、「このままでは母体が危険なので子宮全摘を急ぐ」と告げられて、なんだか無性に腹が立ちました。言葉づかいや説明がちっとも患者の身になっていないんです。
妊娠がわかって、全摘なんてとんでもない、絶対イヤだ!と思いました。本屋に行っては、筋腫があっても無事に出産したケースを探して医学書を読んだり、「初めての妊娠・出産」という本を拾い読みしたりしていましたが、そこでふと斎藤先生の『子宮をのこしたい 10人の選択』が目についたんです。
もう夢中になって一晩で読みました。そして、翌日には先生に電話をして、すぐにでも診ていただきたい、とお願いしました。不思議と不安感はありませんでした。この時に先生の本に出会っていなかったら、今、娘とともに暮らす幸せはなかったと思います。
●子宮が残るのなら…
初めて訪れた広尾メディカルクリニックは、病院とは思えないような優しい雰囲気に包まれていました。普通の住宅を大きくしたような、まさにアットホームな感じなんです。先生も看護婦さんもにこにこしていて、なんだか初めてお会いするような気がしなかったのを覚えています。
早速、超音波エコーで診ていただくと「赤ちゃんは生きているのかどうか確認できないけど、万が一赤ちゃんはダメでも子宮は救える。大丈夫、子宮は残してあげる」とおっしゃるんです。胎児の心臓の動きがエコーに出なかったようなのです。
帰って主人にこのことを話し、残念だけど子供は諦めて、とにかく子宮を救っていただこう、ということになりました。子宮が残れば先に希望をつなぐことができるわけですから。そして、翌日すぐに「子供は諦めます。手術をお願いします」と先生に電話をしました。もう一刻も早く、手術していただきたいという思いでいっぱいでした。
手術前の検査ではCTスキャンなどレントゲンをたくさん撮りましたから、これで子供はいよいよダメだな、とすっかり覚悟を決めました。子供は諦めると決めたものの、この時までは心のどこかで「もしかしたら…」というかすかな望みを捨てきれずにいたんだと思います。
●生きてる、生きてる
手術の当日、手術前にもう1度超音波エコーで診察していた先生が「赤ちゃん、生きているかもしれない。前よりたしかに大きくなっている」とおっしゃるんです。「えーっ!」と驚く私に、「うん、動いてる、動いてる。助けられるかもしれない」と重ねておっしゃるんです。付き添って来た主人にもこのことが伝えられて、急きょ「まず赤ちゃんを助けましょう」ということになりました。この子はどうしても産まれてきたい子なのだ、とその時ベッドの上で強く思いました。」
手術は3時間くらいで終わりました。摘出された筋腫は870グラム。「大丈夫、筋腫も完全に取れたよ」と先生はいつもと変わらぬ笑顔で教えてくださいましたが、胎児を守りながらこれほどの筋腫を取り除くのはどんなに大変なことだったかと、ありがたくて心の中で手を合わせました。この思いは主人も両親も同じだったと思います。
ひとつだけ辛かったのは、手術後に「赤ちゃんに影響するといけないから、痛み止めは極力我慢して」と言われたこと。もう痛くて痛くて、2、3日は痛みとの戦いでしたが、それでも先生は「我慢できるよね」とにこにこしておっしゃるんです。
痛みが和らいだ4日目に、手術後初めてエコーを撮りました。その時の感動は今も鮮明です。「生きてる、生きてる。よかった、よかった」と先生がひときわ明るい声をあげたのです。ああ、よかった、本当によかった、と心の底から涙がこみ上げてきて、止まりませんでした。
●月満ちて出産
一度は諦めた子供も、大学病院で全摘と宣告された子宮も、先生の手で救っていただきました。手術後の経過はきわめて順調で、予定日の1週間前に帝王切開で出産。2700グラムの女の子でした。出産まで毎月、先生の手でエコーに映して子供の様子を見せてもらっていましたから、なんだか初めて見るというより「こんにちわ」という感じで、妙になつかしい気持ちでした。産まれてきたかったこの子が、先生の手で生命をつないでいただいたことに、感謝してもしきれない思いです。大事に育てていかなければと思っています。


●初潮とともに痛みが始まった
振り返ってみれば、子宮内膜症による痛みとの付き合いは、初潮以来かれこれ20年に及びます。小学校5年生で初潮を迎えて、6年生の時にはもう下腹にかなりの痛みがありました。もっとも子宮内膜症(腺筋症)と診断されたのは25歳の時ですから、少女の頃の生理痛が子宮内膜症によるものかどうかはわかりませんが、高校生の頃には私の生理痛のひどさはクラスでも有名でした。
生理が始まると顔は真っ青、下腹部が重苦しく痛み、吐き気もありました。受け持ちの先生が見かねて「家に帰って休みなさい」と早退させてくれるほどでした。保健の先生には「若いうちから生理痛の薬を飲むのはよくない」と言われていましたので、とにかく生理が終わるまでじっと我慢、我慢の繰り返し。毎月こんなふうで、本当にゆううつでした。
それでも23歳の頃までは、1日くらい休めばなんとか生理を切り抜けることができました。学生時代から付き合っていた主人と結婚することになって、一度婦人科で診てもらったことがあるんですが、その時は別に病名を告げられることもなく「早く結婚して、早く子供をつくりなさい。妊娠すれば軽くなるだろうから、薬には頼らないほうがいい」と言われました。
●生理になると寝込む
25歳で子宮内膜症と診断された時は、その前日に生理でもないのに下腹の左側にただならぬ痛みを覚えて、救急車で病院に行ったんです。とりあえず当直の医師が診てくれて、婦人科で受診するように勧められました。次の日に行った婦人科で初めて子宮内膜症(腺筋症)という病名を聞かされ、生理の時の激しい下腹痛がその代表的な症状であることを知りました。
その時の医師は「いずれ我慢ができなくなって、手術することになるだろう」と言いましたが、手術が子宮全摘を意味することはわかっていました。
年を追って痛みと月経量がひどくなるのがこの病気の特徴で、事実、27歳の頃には、生理になると痛くて痛くて起きあがることもできないほどで、ナプキンを取り替えにトイレに立つことさえ容易ではありませんでした。とても出勤して仕事をするどころではなく、生理になると必ず休みをもらっていましたから、職場では私の病気を知らない人はいませんでした。
●薬で治したい
28歳、29歳の2年間ほどは、なんとか薬で治せないものかと、杉並の杉山四郎先生の医院に通いました。後で知ったことですが、斎藤先生は若き修行時代に杉山先生のもとでたくさんの子宮手術を手がけていらしたんですね。杉山先生にお世話になった4年後に、今度は斎藤先生の手で子宮を救っていただくことになろうとは…。不思議なご縁を感じます。
杉山先生のところでは、「ボンゾール」と「スプレキュア」を使ったホルモン療法を試みました。半年薬を使って、半年様子を見る、という治療を2回繰り返したわけですが、その間に薬の副作用で7キロも体重が増えてしまった。これはまったく予想外のことでした。
杉山先生は「まあ、気長にやりましょうよ」と励ましてくれましたが、痛みのほうはさほど改善されず、「ボルタレン」という痛み止めの薬を定期的にもらっていました。この頃には市販の痛み止めの薬はまったく効かなくなっていて、そればかりか市販薬を飲むとゲーゲーと猛烈な吐き気が襲ってきて、苦しくてたまらずに救急車のお世話になったことが年に2、3回はありました。
●絶え間ない痛みの日々
30歳になる頃には、痛みはいよいよひどくなって、生理の時だけでなく絶えず痛みを感じるようになって、夜中に起き出して痛み止めを飲むこともしょっちゅうでした。体調が悪い日は寝ているしかなくて、これではフルタイムで働くのは無理と、正社員から週3日勤務のアルバイトに切り替えたのもこの頃です。
たとえ大事な仕事の予定があっても、生理と重なってしまうと休まざるを得ない。そういう状態では仕事を続けることもむずかしいのでしょうが、幸い主人の友人が経営する会社に勤務していましたので、周囲の人がわかってくれて、この点は恵まれていたと思います。
痛みを我慢し続けたあげくに子宮全摘手術ではたまらない、何か外科手術以外の手だてはないものかと、順天堂大学病院で精密検査を受けたのは昨年の12月末のことです。MRIも撮りました。結婚以来、一度も妊娠したことがないので、主人はその可能性についても聞きたかったようです。結果は、「こんな重症の腺筋症患者で、妊娠した例はいまだに一例もない」というもので、私には自分の症状の重さがわかっていますから驚きはなかったのですが、主人はかなりショック?????だったようです。「もう無理」とダメ押しされたようなものですから。
●内膜症でも子宮は残るんだ
今にして思えば、この頃が精神的にも最も辛い時期でした。13年間可愛がってきた猫に死なれた寂しさもあって、欝々とした最悪の精神状態で1月、2月を過ごしていました。いっそガンであったなら、命と引き換えに躊躇なく子宮全摘手術を受けるのだけれど…、この先、どこまで我慢できるのだろう…、そんな思いが頭の中をぐるぐる回っていました。
家の近くの図書館で斎藤先生の『子宮をのこしたい 10人の選択』を手にしたのは、ちょうどその頃で、目次に「子宮内膜症(腺筋症)」の文字を見つけて一気に読みました。子宮筋腫について書かれた本はそれまでも見てきましたが、内膜症にもふれた本は初めてでした。
子宮内膜症でも保存手術ができるんだ。驚きと期待が入り交じった思いで胸が熱くなり、この手術を受けようと決断するまでさほど時間はかかりませんでした。3月半ばに手術の予約を入れたその晩に義父が危篤となり、結局、最初の予約はキャンセル。その後、義父の死、お葬式と忙しく過ぎて、手術は5月27日に受けました。
手術前の最後の生理は義父のお葬式と重なってしまい、寝込むわけにもいかず、これは本当に辛かった。真っ青な顔をして、ようやく座っているのを見かねて、叔父が「大丈夫か」と声をかけてくれたくらいです。
●術後1カ月でヨットに
手術は局部麻酔で、3時間くらいかかったでしょうか。子宮内膜にできていた多発性ポリープ1グラム、病変部分245グラムを摘出しました。手術中に、手術室まで来るように呼ばれた主人は、何か不測の事態が起きたのではないかと、ものすごく驚いたのだそうです。これはいつも先生がなさることで、妻の子宮や卵巣を見せてくれるというものなんです。
先生の手で病巣はきれいに摘出され、子宮の機能は残りました。しかも、再発のおそれはないでしょうという。手術後、あんなに悩まされていた下腹の痛みは嘘のようにとれて、生理もきちんとやってきました。ちょっと下腹部が重苦しい感じがして、試しに市販の痛み止めを飲んだところ、ケロリと治ってしまったのにはびっくりしましたね。
そうそう、術後1カ月しないうちにヨットに乗ってました。ヨットは私たち夫婦の共通の趣味。子供がいなくてもヨットがあるからいいね、と話していたほどのヨット好きなんですが、7月末にはレースに出るための回航で、生理中なのにヨットで2日間の航海をしました。これは劇的な変化です。
それから、もうひとつハッピーな変化は夫婦生活がもどってきたこと。手術前の2年あまりは、ふだんでも痛くて痛くて、主人には悪いなと思いながらもセックスが苦痛で、自然と遠ざかっていたのですが、手術で長い間の痛みから解放されて、今は私も主人も幸せです


●結婚9年目の妊娠、そして流産予告
しばらく体調の悪い日が続いて、生理も遅れていたので「もしかしたら…」と近所の総合病院に行ったのは、33歳の4月1日でした。25歳で結婚してから一度も妊娠したことがなかったので、「妊娠しています」と聞かされてビックリしたのですが、それ以上に驚いたのは「大きな筋腫がありますよ。まあ今の段階では流産の可能性もあるし、エコーで見ても胎児の影も見えないくらいだから、うまく育つかどうかはわかりませんよ」と告げられたことです。医師が指さすエコーの画像には、大きな筋腫のかたまりと、筋腫に押しつぶされそうな小さなふくろが微かに映っていました。まだ心臓の鼓動も見えないこの小さなふくろが、私に宿った初めての生命でした。
●斎藤先生との出会い
エコーで映し出された小さなふくろが、その日以来、私の頭から離れなくなってしまいました。それまでさほど子供を欲しいと思ったこともなかった私が、どうしてもこの子を産みたい、この子を流産するわけにはいかない、と強く強く思ったことは、自分でも意外でした。きっと、流産すると決めてかかっている医師への反発もあったのだと思います。
どうしても小さな生命が諦められなくて、勤務先の上司に相談を持ちかけました。上司は長らく科学部の記者として取材をしてきた経験から、医学関係に広いネットワークを持っていたからです。
上司に紹介されたのが斎藤先生でした。初診は4月5日。この時の診察では、エコーの画像に鼓動がはっきりと見えました。ああ、生きている、悪条件の中で精いっぱい大きくなろうとしている、そう思ったら、なにがなんでもこの生命を生かしたくて、斎藤先生に手術してもらうことを即決しました。
●エコーの診断だけで手術
「赤ちゃんは助けられるかもしれません」。斎藤先生は手術の前にそうおっしゃいましたが、腸や胃をせり上げるほどに大きくなっている筋腫を取り除いて胎児を守る手術が、どれほど難しく危険性を伴うものであるかは想像に難くありません。私の後にも妊娠初期に筋腫を摘出して胎児を助けるというケースは続いていますが、この難しい手術の第1号が私でした。
とにかくお腹の中の子供のことが気がかりで、少しでも安全であるようにとMRIの撮影も固辞し、先生にはエコーの結果だけをたよりに手術をしていただくことになりました。初めてのケースであるうえに、十分なデータが揃わないままの手術で、先生はさぞご苦労されたことと思います。
手術は4月18日。摘出された筋腫は600グラムでした。先生の手術では、筋腫の摘出だけなら横に7、8センチ、最小限の長さを切開するのがふつうですが、私の場合は帝王切開で出産することを考慮して縦にメスが入りました。手術には、私を斎藤先生に引き合わせてくれた上司も立ち会いましたが、病状や手術法の説明も含めて、すべてをオープンにするのが先生のやりかたです。
●10日目に見た元気な鼓動
「赤ちゃんは助かったよ」。手術後にそう聞かされて一安心したものの、やはりエコーで鼓動を確認するまでは正直なところ心配でした。手術後はどの患者も多少出血するのですが、その出血が術後の経過によるものなのか、流産の兆候を示すものなのか、内心ハラハラして過ごしたことを思い出します。
辛かったのは、術後、身動きがとれなかったこと。胎児の安定をはかるために絶対安静で、両腕には化膿止めと流産防止の点滴の針が入り、寝返りを打つこともできません。腰が痛くて痛くて、我慢できずに看護婦さんに訴えたところ、すぐに包帯で円座を作って腰の下に当てがってくれました。患者が願うことをできる限り叶えようとするこの親身さは、斎藤先生、看護婦さん、事務の方みなさんに共通するものだと感じました。
手術して10日目、エコーの画像に胎児がはっきりと映りました。筋腫に押しつぶされそうにしていたのが、子宮の真ん中で伸びやかに鼓動を打っている様子を目の当たりにして、心底「よかった!」と思いました。この思いは先生も同じだったかもしれません。何回も何回も「よかったね」とおっしゃいました。看護婦さんも代わる代わるエコーを見に来てくれて、クリニック中のみなさんが祝福してくださいました。
●思いがけない陣痛
「しばらくは安静に」という注意を受けて退院して、いくらも経たないうちに突然の出血。また先生の元にUターンすることになりました。それから2カ月あまり、胎児の成長をエコーで確認していただきながら、広尾メディカルクリニック始まって以来の長期入院の身となりました。ほかの患者さんはたいてい月曜日に手術して土曜日には元気になって退院していきますから、私は入院中に何人もの患者さんを見送りました。この間に感じたことは、先生や看護婦さんがどの患者にも分け隔てなく親身でやさしいということです。
勤務先には出産まで休むことを了解してもらい、夏の暑い盛りを自宅で過ごしました。そして、9月の半ば、いつものように定期検診で先生に診ていただいた帰り道、車の中でお腹が痛くなってきたのです。痛みは一定の間隔で強くなっていき、どうにも我慢ができなくなりました。運転していた主人に車をとめてもらい、急いで先生に電話してもらいました。
先生とすぐに連絡がとれたのは本当にラッキーでした。「今すぐに行くから、動かずに待っているように」とおっしゃって駆けつけてくれたのですが、途中で何度も主人の携帯電話に様子をたずねる電話を入れ、あと何分ぐらいで到着するかの連絡を入れてくださいました。私や主人が不安に陥らないように気遣ってくださったのだと思います。
●早産、そして、わが家の王様に
予定日より2カ月も早い出産となりました。急遽、先生の所で陣痛を抑える処置をしていただきましたが、その間にも先生は未熟児を受け入れてもらえる病院をさがして、あちこちに連絡してくださっていたのです。先生の母校、東邦大学で受け入れてもらえることになり、先生の車で東邦大学へ急行。帝王切開で無事に出産することができました。
出産後に聞いた話では、子供はすでに産道に下りかかっていて、帝王切開したものの安全に取り出すのが大変だったとか。いろいろな困難を一つ一つクリアしながらここまで育った胎児なのだから、と先生は出産時も胎児の安全を第一に考えて、東邦大の先生にあれこれと指示されたと後からうかがいました。
子供は1カ月保育器に入り、その後半月を新生児室で過ごし、何の心配もなく退院することができました。結婚9年目にして新しい家族を迎えることになったわが家は、以来、小さな王様に振り回されています。
思えば、4月の子宮保存手術から9月の出産まで、本当に斎藤先生にはお世話になりっぱなしでした。医師と患者という一般的な関係を超えた親身なケアを受けて、私も主人も言い尽くせない感謝と信頼を先生に寄せています。先生に出会うことがなければ現在の幸せを手に入れることはできませんでしたし、何でも相談することのできる生涯の医師に出会えたことは、わが家の財産だと思っています。
●不整脈が消えた
授乳中もずっとなかった生理が再び始まったのは、出産後7、8カ月ほどしてからでしたが、「生理ってこんなにも楽なものだったのか」と驚きました。それまでは生理痛がひどく、月経量も多かったのですが、子宮筋腫を疑うこともなく「こんなものなのだろう」と半ば諦めていたのです。
妊娠がわかる1、2年前からは生理の時はもちろん、生理でない時にも身体がだるく、不整脈に悩まされていました。数百メートル歩くと不整脈が出て、しばらく立ち止まっては脈が鎮まるのを待つ、という繰り返しでした。ところが、子宮保存手術を受けてからは、この不整脈がピタリと止まってしまったのです。
私が気づかぬところで、筋腫が日々肥大し、腸や膀胱は言うまでもなく、心臓や肺など多くの臓器に負担をかけていたことを知りました。今は不整脈が消えて、快適な日を過ごしています。


●全摘宣告に落ち込む
昨年の10月16日のことです。会社から帰ってきた主人が「こんな病院があるそうだよ」と言って、広尾のホームページをプリントしたものを渡してくれました。会社のインターネットで検索していたら、偶然、広尾のことが目に止まったのだそうです。
実はこの数日前、私は通院中の婦人科で全摘手術を告げられて、相当落ち込んでいました。この病院には2月から10月まで9カ月近く通ってホルモン治療を受けていたのですが、まさか全摘手術になろうとは思ってもいませんでしたから、「そろそろ手術したほうが…」と切り出されても、すぐには医師の言葉を理解できず、「手術って、どういう手術ですか」と聞き返してしまうほどでした。
「全摘手術です。そのほうが先々安心ですよ」と重ねて言われて、もう頭の中は真っ白。ホルモン治療で子宮筋腫は改善されるものと信じていましたから、いったいこれまでの治療は何のための治療だったの?!、と涙があふれてきました。頭の中がよほど混乱していたんでしょう、「手術って、お腹を切るんでしょうか」なんて質問までしてしまって、医師から気の毒そうに「ええ、切ることになりますね」とダメ押しをされてしまいました。
そんないきさつがあって、家でも暗い顔をしてため息ばかりついていましたから、主人も気がかりだったのでしょうか。仕事の合間に、インターネットで子宮関連の情報を検索してくれたのだと思います。主人は「偶然見つけた」と言っていますが。
●手術が待ち遠しい
とにかく、斎藤先生に一度お話を聞いてこようと、初めてお訪ねしたのが10月22日。そして、1週間後に「お願いします」と電話を入れました。
この間、迷いがなかったかと言えば嘘で、今まで通院していた病院の医師もいい人でしたから、もう若くはないのだから全摘でも仕方ないかと思ったり、いや、やっぱり子宮は残しておきたいと思ったり…。母たちに相談すると、筋腫で子宮を取った人を身近に何人も知っているものですから、保存手術ってどんな手術なの?と、かえって危ぶむ声もあって、先生に電話で返事をするまでには気持ちが揺れ動きました。
最終的に斎藤先生に手術していただこうと決めたのは、「自分が後悔しない方を選びなさい。手術を受けるのは君自身なんだから」という主人の言葉があったからです。全摘手術後の後遺症で、ホルモンのバランスが崩れて更年期のような症状になったり、周辺の臓器に負担がかかるために体調が悪くなるという話を聞いていましたので、自分の健康を守るためには保存手術を受けるべきだ、と私なりに判断したのです。
婦人画報社の『子宮をのこしたいー10人の選択』を読んで、自分の選択は間違っていなかったと確信しました。そう思ったら、つい1週間前の泣きべそはどこへやら、すごく気持ちが明るくなって、手術が待ち遠しいような、入院が楽しみなような気分になりました。元来が楽天的なんです。
手術前の検査で広尾に行った時に、先生がその週に手術をした二人の患者さんに会わせてくださいました。手術して4日目の木曜日でしたが、お二人とも1階の病室から2階のリビングまで上がってこられて、とても元気そうにおしゃべりしていました。4日目でこんなに元気なら、退院後はすぐに普段の生活に戻れそうだと思い、手術後の生活に思いを馳せて、あれをしよう、あそこに出かけよう、と予定をあれこれと考えてルンルン気分でした。
●痛みを癒す先生の声
手術は11月25日。1時から始まって、終わったのが4時半でした。摘出された筋腫は720グラム。それと腺筋症の疑いのある部位を5グラム摘出しました。手術中の出血も少なく、もちろん輸血の必要もなく、筋腫は残らず取っていただきました。
手術直後にホルマリン液に浸かった摘出物を先生に見せられた時には、その生々しさに思わず目をそむけてしまったのですが、退院の時にいただいたファイルに綴じられている摘出物の写真を見たら、大小13個の筋腫がありました。こんなにたくさん、しかも石のように硬い筋腫が子宮いっぱいにあったのでは、とてもホルモン療法で治るわけがない、私の筋腫はホルモン療法で改善される段階をとっくに過ぎていたのだ、と納得してしまいました。
手術後辛かったのみです。レーザー治療とは言っても生身の身体にメスを入れることに変わりはないのですから、痛いのは当たり前なのですが、あまりにもルンルン気分で入院し、手術を簡単に考えていたぶん、痛さを余計に感じたのだと思います。
動くと痛いし、微熱もありましたので、少し歩く練習をして、後はベッドに寝てばかりいました。食事も木曜日まではお粥で、便秘しないようにと消化のよいメニューを出してくださるのですが、食欲がなく、残さずに食べたのは果物だけ。30代と40代ではやはり回復力が違うのかな、と思ったりしていました。
それでも"日薬"とはよく言ったもので、一日一日痛みは和らぎ、木曜日にはシャワーをつかってサッパリしました。そして、何よりも薬になったのは、時々病室に来られて「どう?大丈夫だね」と大きな声をかけてくださる先生の存在。笑顔でそう言われると、単純な私は「もう大丈夫」と暗示にかかってしまうのです。
入院中は看護婦さんがパジャマなどの洗濯もしてくださって、完全看護とは言え、ありがたかったです。
●退院後、無理しない
入院中に見舞いに来てくれた妹に、「考えていたより痛いわ」と訴えたら、「でも、痛いだけならいいじゃない。これが全摘手術だったら、痛みに悲しさとか後悔とかが混じって、もっともっと辛いはずよ」と言われて、全くその通りだと思いました。痛みの記憶は健康を取り戻せば忘れるものですが、子宮を失った喪失感や切なさはいつまでも癒されないでしょうから。
退院後は母が手伝いに来てくれましたので、最初の1、2週間はとにかく安静にしていて、3週目に車で郵便局や銀行に出かけましたが、それでも少し動き過ぎるとお腹が痛くなるという状態でした。母からは「お産と同じなのだから、後を大事にしなくてはいけない」と言われましたが、これは年齢を重ねた人の体験的な知恵だと思いました。回復のスピードには年齢差や個人差はあるでしょうが、早く元気になるためには、退院後2週間は無理をしてはいけないと痛感しています。
インターネットのおかげで全摘手術を免れただけでも好運でしたが、もし10年前に斎藤先生に出会っていたら…、と思うこの頃です。私の筋腫は20年くらい前から出来ていたものだろうと手術の後に先生から伺いましたが、結婚後子供に恵まれなかったのは筋腫があったことも原因の一つかも知れません。10年前に保存手術を受けていたら、あるいは…、とふと考えてしまいました。
夫婦二人の生活に何の不満もないのですが、保存手術後に出産したという例を聞いて、もしこれから先、妊娠することがあったらどうしよう、と正直なところ戸惑いを感じています。子供のことなどすっかり忘れて生活してきたのに、今ほんの微かな可能性に胸をときめかせています。


●妊娠がわかって
今、妊娠24週です。先日、妊娠の報告をしに主人と一緒に広尾に出かけました。妊娠がわかってからは自宅の近くの大学病院で定期検診を受けていますが、改めて斎藤先生に超音波で胎児の様子を見ていただいて、感激もひとしおでした。
「赤ちゃんは男の子だよ」と先生が教えてくださいました。20週を過ぎれば性別がわかるのだそうです。「おなかの中にいるうちから、○○ちゃんと名前で呼んで話しかけるといい子が生まれるそうだよ」と先生。さっそく主人と生まれてくる子の名前を考えています。
20週を過ぎた頃から、おなかも目だつようになって、いよいよ妊婦スタイルになってきていますが、不思議なもので、町を歩いていても、おなかの大きな女性や小さな子ども連れの人に目が止まるようになりました。これは妊娠前には気づかなかったことです。
結婚して妊娠するなんて、1年前には思ってもいませんでした。まして、子宮筋腫があることがわかってあちこちの病院を渡り歩いていた4年前には、このような幸せを手に入れることができるなんて想像もできませんでした。
今、つくづく斎藤先生に手術をしていただいてよかったと思います。先生への感謝と、とにかく元気に無事に生まれてくれれば…という祈るような思いで、2月16日の出産予定日を待っています。
●生理が止まらなくなった
子宮筋腫がわかったのは4年前の秋です。それ以前には特に生理の異常を感じることもなかったのですが、突然、生理が止まらなくなったのです。生理が始まって10日経っても出血がおさまる様子がないため、近くの婦人科に行きました。診断は子宮筋腫とのことで、血液検査の結果では貧血もありました。
とりあえず生理を止めるために、止血剤とホルモン剤を処方してもらって帰りましたが、その時の医師に「止血剤だけでは止まりませんよ」と言われました。本当にその通りで、ホルモン剤を服用するとピタリと止まるのです。
次の月の生理も状況は同じでした。今度は2週間経っても生理が終わらず、また止血剤とホルモン剤のお世話になりました。
「これは間違いなく子宮筋腫だ」と納得した理由のひとつに、母が子宮筋腫だったということがあります。母娘の体質は似ると言われますが、母は30代後半に全摘手術を受けているのです。母の時代にはもちろん斎藤先生もいらっしゃらなかったし、「子宮筋腫イコール全摘手術」を母も当たり前のこととして受け入れたのだと思いますが、私自身が子宮筋腫の患者になって病院を転々とした経験から感じたのは、今なお最終的には全摘手術によって解決をはかろうとする医療機関がほとんどであるということです。
●納得のいく病院を探した
地元で一番大きい総合病院では、当然のように「症状を解消するには全摘しかない」と言われました。子宮全摘をした母を見ている私にとって、これは辛い宣告でした。手術後の母は体調がはかばかしくなく、毎月、病院でホルモン注射を受けていたことを子供心に覚えていましたし、何よりも未婚の私が子宮を失うなんて絶対に受け入れられないことでした。
女医さんなら同じ女性として子宮を失いたくない気持ちがわかってくれるだろうと、婦人科の女医さんを頼って訪ねた都心の病院では、病名こそ地元の病院と同じでしたが「しばらく様子を見ましょう」と言って、積極的な治療は何もしてくれませんでした。
ようやく納得のいく説明が得られたのは、自宅から電車で4駅目にある帝京大学医学部付属病院でした。ここの先生は検査の後で「筋腫そのものはそれほど大きくはないが、子宮の内膜腔に突出しているので、核出手術で全部を取りきるのは不可能です。でも、まだ若いし未婚でもあるので全摘手術はせずに、取れるところだけ取って、妊娠の可能性を残しましょう」と説明してくれました。ただし、「その場合でも、妊娠の可能性は30パーセント。手術によって内膜がはがれ落ちることが考えられるので」とのことでした。
30パーセントという数字に落胆するか、それとも希望をつなぐか。私はたとえ30パーセントでも可能性が残されるのなら、そこに賭けて手術してもらおうか、と一度は帝京大病院での手術を考えました。でも、最後のところで踏み切れなかったのは、ひょっとしたらもっと良い選択肢があるのではないかという思いを断ち切れなかったからです。
●子宮を失いたくない一念で
あの頃、あちこちの病院にかかっていた私は、週のうち2回も病院通いのために職場を抜けなくてはならない状態でしたが、幸い職場には既婚で子供のいる女性が多く、「病院を優先していいから」と理解してくれたのはありがたいことでした。ただ、若い同僚にはあまり知られたくないという気持ちはありました。
皮肉なもので、子宮を失うかもしれないという現実に直面して初めて自分の人生について考えました。それまでは将来結婚することも、妊娠・出産することも成り行き任せ、どちらでもいいと思っていたのですが、子宮筋腫がわかってからは、どうしても子供を生みたい、そのためには絶対に子宮を失いたくないという強い気持ちに変わりました。それがなかったら、斎藤先生に出会うことも、結婚して妊娠することもなかったと思います。
斎藤先生の本『子宮をのこしたい 10人の選択』に出会ったのは、病院通いのある日、自宅の一番近くにある本屋にふと立ち寄った時のことです。さほど大きくもない本屋に並んでいた先生の本に吸い寄せられるように手を伸ばし、すぐに買って帰りました。
本を読んで「ここしかない」と思った私は、本の巻末の「診察から退院まで」に紹介されていた和泉信子さんという患者さんに電話をしました。広尾に電話をする前に、まず患者さんの話を聞いてみたいと思ったのです。和泉さんは千葉市にある美容院のオーナー美容師さんで、退院してから元気にお店で仕事をしていらっしゃる写真に添えて、お店の名前が書いてあったのです。
和泉さんが同じ千葉に住んでいるという親近感もあり、お店の名前を頼りに電話番号を調べていきなり電話した私に、和泉さんは親切にいろいろな質問に答えてくださいました。和泉さんのお話を聞いて、広尾で手術してもらおうという決心は一層深くなりました。
●手術、結婚、そして妊娠
94年の新年が明けてすぐ、1月4日にMRIなどの術前検査を受け、10日に手術を受けました。この日は新年になって最初のオペ日でした。
摘出された筋腫は120グラム。グラム数こそ多くはありませんでしたが、子宮筋腫全体が子宮内膜腔内に大きく突出した粘膜下筋腫でした。「子宮内膜は切開していないので、将来の妊娠には影響ありません」という先生の言葉を聞いて、私も母もどんなに嬉しかったか。母は私が同じように子宮を失うかもしれないということを誰よりも心配し、悲しんでいましたから、子宮が救われた喜びはひとしおだったと思います。
下腹部の切開部分は5センチと小さく、手術中の出血も64ccとごく少量でしたので、術後の経過は順調で、その週の土曜日には退院。2月には職場復帰し、元気になった私を見た職場のみんなからは「執念で病院を探した結果だね」と言われました。
さて、最後に主人との出会いから結婚、妊娠までをお話します。友人の紹介で初めて主人と会ったのは昨年の秋。今年に入ってトントン拍子に結婚の話が進んで、4月15日に結婚式を挙げました。結婚が決まって、主人には広尾で手術を受けたことを話し、退院の時に先生からいただいたファイルを全部見せました。手術の後で、妊娠に影響はないと言われてはいましたが、主人には「結婚しても妊娠できるかどうかはわからない」と正直に話しました。「それでもかまわない」という主人の言葉がなかったら、はたして結婚に踏み切っていたかどうか…。斎藤先生がおっしゃっていた「結婚が決まったら、彼には手術のことをきちんと話してあげるから、いつでも連れていらっしゃい」という言葉も、支えになりました。
主人がよくわかってくれて、二人で斎藤先生をお訪ねする間もなく、結婚して2カ月後に妊娠していることがわかりました。その時の心の底から沸き上がるような嬉しさを今もはっきり思い出します。さっそく先生に手紙でお知らせしましたが、すぐに「幸運を呼び寄せたのはあなたの力」というお返事をいただきました。3年も前の患者のことは覚えていらっしゃらないだろうと思っていたのに、「超音波で赤ちゃんを見てあげるから、ご主人と遊びにいらっしゃい」とまで書いてくださって、本当に嬉しかったです。


●待ちに待った我が子の誕生
手術から2年目の昨年10月19日、長女の一遥(いちよう)が生まれました。もう子供はできないものと思っていた私たち夫婦にとっては、待ちに待った我が子です。寝顔、泣き顔、無心におっぱいを飲む顔、そして笑顔、かわいくて見飽きることがありません。
誕生した時から遥かな将来まで健やかに幸せであってほしい、との願いを込めて一遥という名前をつけました。おかげさまですくすくと育ってくれています。子供の世話でてんてこ舞いの毎日ですが、この幸せは広尾で子宮保存手術を受けなければ手に入れることはできませんでした。
●結婚して10年間の不妊
広尾で手術を受けたのは平成8年11月4日ですが、実は手術を受ける2ヶ月前まで子宮筋腫があるなんて思ってもみませんでした。たしかに、いつも生理の出血は多くて、生理になるとタンポンをしたうえに夜用の厚いナプキンを当てて出勤していました。それでも自宅のある大月から神田まで通う通勤の途中に洋服を汚してしまうのではないかと心配するほどでしたが、こればかりは他人と比較できませんから「年齢的にみてこれが通常の生理なんだわ」くらいに思っていました。
ところが平成8年の9月に不正出血があり、初めて婦人科の病院に行きました。友人に紹介された横浜のクリニックです。初めて行く婦人科というのはやはり不安なもので、「もしかしたら悪い病気?」と思う一方で「ひょっとしたら妊娠?」という淡い期待もないわけではありませんでした。それというのも結婚してかれこれ10年になるのに、まだ子供に恵まれなかったからです。
子宮筋腫があるとは夢にも思わず、不正出血を「ひょっとして妊娠?」と思ってしまうなんて見当違いもいいところですが、その時まで私は女性の生理や子宮の病気について何の知識ももっていなかったのです。ですから、「筋腫がありますね」と医師から聞かされても、「キンシュ?それって何?」「私がシキュウキンシュですって?」と、頭の中は???ばかりで、すぐには事態をのみ込むことができませんでした。
●ホームページで広尾を知る
筋腫があると告げたあとで医師が言った言葉も私を困惑させました。
「子供が欲しいなら急いで作ってください。妊娠するか、子宮をとるか、どちらかになるといけませんから」と言うのです。いったい何なの?、急いで作ってくださいと言われたって、今まで10年間も子供ができなかったのに。
「それじゃ、どうしたらできるのよ。それに、子宮をとらなくてはならないほどの病気があって妊娠なんてできるの?」と、頭の中はまた???でいっぱいになりました。子供を作るどころか、子宮をとるという悲惨な現実だけで、頭の中は絶望的になりました。
広尾のホームページを知ったのは、横浜のクリニックを紹介してくれた友人のアルバイト先がホームページのプロバイダーだったという幸運からです。広尾のホームページはまだ開設して間がなく、患者さんの体験レポートもわずかでしたが、読んでいくうちに「ここで手術をして子宮を残すことができれば、子供はできなくてもいい」と思うようになりました。いつしか、子供を作ることよりも子宮を守ることに夢中になっていました。
それでも広尾で手術をしようと決心するまでには迷いがあったことも事実で、その理由のひとつは自費診療であるため手術代にお金がかかるということでした。自分の体のことなのだから自分で決断するしかない、と言われましたが、費用のことを考えれば、当然、主人にも相談しなければなりません。
主人は「それで体が楽になるのなら手術したらいいよ。たとえ、子供はできなくとも」と言ってくれました。主人は私が生理のたびに青白い顔をして辛そうにしているのをずっと見てきて、そう言ったのでしょう。ほんとうに手術を受ける前の私は貧血でとても疲れやすく、生理の時に限らずいつも体が重く、辛かった。それが子宮筋腫のせいだとは全く思いもしなかったのですが。
●やっぱり子供が欲しい
斎藤先生はよく「手術を受けた後に、これまでの生理がどんなに異常なものだったかがわかるよ」とおっしゃいますが、ほんとうにその通りで、手術後は出血の量が10分の1以下になり、体がものすごく楽になりました。「こんなに楽になったのだから、それだけで十分」と思うほどの体調の変化でしたが、そう思う一方で「こんなに回復したのだから、もしかしたら子供もできるかも しれない」と、子宮を残すことに夢中だった私が、再び妊娠を期待する気持ちになりました。健康になってみると、やっぱり子供をもつ夢がふくらんでいくのです。
残念ながら1年が過ぎても妊娠の兆しはありませんでした。「やっぱりダメなんだ」という諦めの気持ちが広がってきて、主人と「子供だけが人生じゃないものね。子供ができなくてもいいよね。こんなに体が楽になったんだから手術した意味はあったよね」と話し合ったものですが、人生とは摩訶不思議なもので、諦めたとたんに妊娠がわかったのです。忘れもしない昨春、3月18日 のことです。7週目に入ったところでした。
●切迫流産、そして無事出産
もう嬉しくて嬉しくて、さっそく斎藤先生に電話しました。天にも上るような気持ちで「妊娠しました!!」と報告すると、先生は「喜んで毎週のように病院に行っていると、流産しちゃうよ」と意外にも冷静なアドバイス。妊娠初期は内診などの刺激で流産することもあるから気をつけなさい、という考えてみればもっともなお言葉だったのですが、妊娠がわかって舞い上がっていた私 には「流産」という言葉がひどく冷酷に聞こえたものです。
ところが、それから間もなく、先生の心配が現実のものになりました。決して毎週のように病院に行っていたわけではないのですが、職場で突然、大出血してしまったのです。かかっていた病院に行くと「切迫流産ですぐに入院」とのこと。その時まで切迫流産という言葉も聞いたことがなかった私は、「ああ、やっぱり流産してしまった」と早合点してしまい、看護婦さんに「胎児のために、とにかく安静にしていて」と言われてはじめて「胎児?ということは、まだ大丈夫なの?」と、流産ではないことを知りました。妊娠や出産についてもなんと無知だったことかと思います。
2週間の入院の後、自宅で5月まで安静に過ごしました。出産前にぜひ一度、斎藤先生にお礼が言いたくて、広尾をお訪ねしたのは8月に入ってからでした。その時に先生が「どこで出産するの?」と病院を心配してくださり、広尾で手術した経緯をよくわかって執刀(出産は帝王切開でした)してくれる病院がよいだろうとのことで、いろいろと相談にのってくださいました。
そうして10月19日に無事、元気な女の子(8月にお訪ねした時に、斎藤先生に性別を見てもらいました)の産声を聞くことができたのです。
●幸せを手に入れた
一遥が誕生してからというもの、家の中は一遥を中心に回っています。初めてのお正月、雛祭りと、一遥が家族に加わったことでわが家はいっぺんに華やぎを増しました。主人は仕事から帰ってくると、真っ先に一遥のベッドのそばに行き、寝顔を見ています。子育ての先輩で、何くれとなく私を助けてくれる義母も、毎日それはそれは一遥をかわいがってくれます。
こんな夢のような幸せを手に入れることができたのも、斎藤先生に手術していただいたからと心から感謝しています。広尾メディカルクリニックを知っていても、手術を受けようかどうかと迷っている方もいらっしゃることと思いますが、どうか、もう一度考えてみてほしいと思います。一度きりの人生なのですから。